歴史はモハンダス・ガンジーの塩の行進について、英帝国主義に決定的な一撃を与えた政治行動であり、過去1世紀におよぶ抵抗運動史の偉大なエピソードのひとつとして記憶している。1930年3月12日の早朝、ガンジーと彼のアシュラムで訓練された78人の中心的な同行者らが海にいたる約380キロの行進に出発した。3週間半後の5月5日、ガンジーは何千もの群衆に取り巻かれて海辺へと歩を進め、海水の蒸発が堆積物の分厚い層を形成した干潟に歩み寄って、塩を一握りすくいあげた。
ガンジーの行為は、インド人が政府専売の塩を購入すると定め、インド人がみずから塩を採取することを禁じる英領インドの法律に背いていた。彼の不服従は、国中を席巻し、10万人もの逮捕者を出すことになる大衆の不服従運動を巻き起こした。尊崇される詩人、ラビンドラナート・タゴールはマンチェスター・ガーディアン紙に掲載された有名な引用で、この政治行動の変革的な衝撃を、「東洋からはるかに遠く離れたイングランドに住む人たちは、ヨーロッパがアジアにおける以前の威光を完全に失ったと今こそ理解しなければならない」と表現した。ロンドンに居を構える不在支配者たちにとって、それは「大いなる精神的敗北」であった。
それでも、ガンジーが運動収束交渉のテーブルで得た内容から判断して、塩のサティアグラハ(真理把握)運動に対して、まったく別の見方をすることも可能だ。アナリストのピーター・アッカーマンとクリストファー・クルーグラーは、ガンジーとインド総督アーウィン卿が交わした1931年合意を評価して、「運動は失敗」であり、「英国が勝利」し、ガンジーが「大安売りした」と主張した。こうした結論には、前例の長い歴史がある。アーウィンとの協定の発表当時、ガンジーの組織であるインド国民会議の身内らは苦い失望を味わった。後に首相になるジャワハルラール・ネルーは深く落胆し、「取り返しの付かない貴重なものを失い、心が空っぽになった」と感じたと記している。
塩の行進がインド独立の大義にとって極めて重要な前進であると即座に考えられたことと、具体的な結果をほとんど残さなかった出来損ないの運動とは、不可解なパラドックスのように思える。だがさらに不思議なことに、社会運動の世界では、そのような結果は珍しくないという事実がある。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのアラバマ州バーミングハムにおける1963年の記念碑的な行動は、同じように不条理な結果に終わっている。一方では、この運動は都市の人種差別撤廃からほど遠い合意で決着し、商店街のいくつかの店の取るに足りない変化よりも大きな成果を待ち望んでいた地元の活動家たちの失望を買うことになった。それと同時に、バーミングハムの運動は、1964年の歴史的な公民権法に結実することになる他のどの運動よりも、おそらく大きな役割を果たしたのであり、公民権運動の鍵となった動きのひとつとみなされている。
この見た目に映るパラドックスは、検証するだけの価値がある。最も重要なことに、この矛盾は、弾みで動く大衆動員が、政界主流派の想定や偏向に染まった目で見ると何が何だか分からない成り行きで、変化を促進すると鮮やかに教えてくれている。ガンジーは、初めから終わりまで――塩の行進の要求項目を構築する方法と運動を収束に持ちこむ手管の両方で――彼の時代の型にはまった政治工作員らを混乱させていた。それでも、運動は英国帝国主義構造を大きく揺さぶっていたのだ。
現代の社会運動を理解したい人、あるいは運動を増強したい人にとって、運動の成功を評価したり、勝利宣言をする潮時を知ったりする方法についての疑問は、これまでと同様、今でも妥当な疑問として残っている。そういう人たちにとって、ガンジーの方法には、言ってみれば、有益でありながら、予想もつかない何かがある。
実益型のアプローチ
塩の行進とその現代のための教訓を理解するには、まず社会運動が変化をもたらす様相にまつわる基本問題のいくつかを検討しなければならない。ガンジーの活動は象徴的な要求と象徴的な勝利の用い方の見事な実例であるといえば、的外れではない。だが、このような概念の中身は何だろうか?
すべての抗議行動、運動、要求には実益と象徴の両面がある。しかし、さまざまなタイプの運動組織には、これらの両面がそれぞれ異なった比率で配分されている。
従来型の政治の場合、要求は主として実益型であり、制度内の具体的な特定結果を得るように設定されている。このモデルでは、圧力団体がみずからの基盤に有利な政策や改革を推進する。この要求は、既存の政治状況の範囲内で達成可能な目標にもとづき慎重に選別される。実益型の要求を追う運動が発足すると、指導者らは組織の力を結集して、必要に応じた利権や譲歩を搾り取ろうとする。構成員らに分前を分配できることが、勝利である。
労働組合やソウル・アリンスキー流派の住民組織――長期的視野に立った制度構造の構築にもとづく団体――は、主に選挙政治の外側で動いていても、基本的に実益第一主義の要求を掲げる。著作家でオーガナイザーであるリンク・センは、アリンスキーが地域住民の組織化に関する長期的な規範を定め、「問題の選定にあたって、第一に重要なのは勝てること」であり、地域住民団体は「即時に実現できる具体的な変化」に集中すべきであると主張していたと説明する。
住民組織化の世界で有名な事例は、近隣住民が危険と感じた交差点に停止信号灯を設置する要求である。だが、これはほんの一例に過ぎない。アリンスキー信奉者の団体は、地元の福祉施設の人材充実、特定地域を差別する銀行や保険会社の赤線引き(融資・保険引受の拒否)の撤廃、行政サービスの届かない地域に信頼できる交通機関を提供するためのバス新路線の開設を勝ち取ろうとするかもしれない。環境保護団体は野生生物に有毒であると周知されている特定化学物質の禁止に動くかもしれない。労働組合は、職場の特定従業員グループの昇給を勝ち取ったり、スケジュール闘争を推進したりするために闘うかもしれない。
これらの団体はこのような問題を取り上げ、慎ましく実用的な勝利を紡ぎだして暮らしを向上させ、組織構造を増強する。時間をかけて、小さな達成が積み上がり、実質的な改革になること、これが希望である。社会変革はゆっくり着実に実現する。
象徴型の出番
塩の行進など、弾みで動く大衆動員の場合、運動は異なった形で効果を現す。大衆運動の活動家は、広範な原則に浸透するように活動を企画し、要求を選んで、闘争の精神的な意義にまつわる物語を創造しなければならない。ここで、要求の最も重要な眼目は、政略の潜在的な影響力や交渉の場での勝ち目ではない。最も決定的なのが、運動の象徴的な特性――すなわち、ある要求が、不正を正す切迫した必要性を公衆の目前でどれほどうまく劇的に表現できるか――である。
従来型の政治家や制度本位のオーガナイザーと同じく、抗議行動を構築しようとする人たちも、やはり戦略目標を掲げており、運動の一部として特定の苦情に取り組もうとするかもしれない。だが、彼/彼女らの総体的な手法はもっと間接的なものである。この種の活動家たちは、既存の政治状況でめでたく達成できる改革に必ずしも集中しない。その代わり、弾みで動く運動は可能性と現実性の認識を改め、政治状況全体の変革をめざす。彼/彼女らは問題を巡る世論を転換し、拡大してやまない支持基盤を活性化して、そうするのである。この運動が最も野心的である場合、政治的に思いもよらない事柄――女性選挙権、公民権、戦争終結、独裁体制打倒、同性婚の平等化――に取り組み、これらを政治的必然に転化する。
特定の政治提案をめぐる交渉は大事だが、それは世論が変わり、活動家の動員が生みだした混乱に対して、実権派が収束を急ぐといった運動の最終局面になってからのことである。初期段階で運動が活力を得ると、要求の主な指標は、その実益的な実用性ではなく、公衆と共振し、大義に対する広範な基盤に立った共感を喚起する特性である。つまり、象徴が実益に勝るのだ。
大衆運動は変化を引き起こすために、この間接的な経路を追い求めるので、抵抗行動が止むことなく勢いを得て、権力者らに新たな挑戦を突きつけるような物語を創造するために思慮深くなければならず、その方法について、さまざまな思想家が論評してきた。社会運動の熟練コーチ、ビル・モイヤーは2001年刊の著書『デモクラシーの実践』において、「社会が広範に保っている価値を権力者たちが侵害している様相を公衆の目前で鮮やかに暴く」ような「ソシオドラマ(社会劇)活動」の重要性を強調している。運動は――独創的な行進やピケから、ボイコット、その他の形の企業排斥、シットインや占拠といった対決的な介入まで広範囲におよぶ――よく練られた抵抗ショーを通して、モイヤーのことばを借りれば、「公共的な社会危機を創出し、社会問題を死活的な公論事項に転化する」のである。
舞台裏の政治交渉に役立つような限定的なタイプの提案は、一般的に効果的なソシオドラマを鼓舞する類の要求ではない。指折りの新左翼オーガナイザーでありベトナム反戦活動家であるトム・ヘイデンはこの件を論評して、新しい運動は狭い利害や抽象的なイデオロギーを踏まえていては立ちあがらず、それどころか、特定のタイプの抽象的な負荷を帯びた事柄――つまり、「道義的な対応を強いる精神の傷」――によって推進されると主張する。ヘイデンは著書『長い60年代』で、そのような傷の例をいくつか紹介している。それには、公民権運動における軽食スタンドの人種差別、バークレイの自由言論運動における学生のリーフレット発行権の停止などがあり、農場労働者運動による柄の短い鍬に対するボイコット運動の場合、この農具が農場作業員に前かがみ姿勢の過酷な労働を強制していたので、移民労働者搾取の象徴的な存在になっていた。
これらの問題はある意味で「勝ち目」の基準を逆転させる。「不平不満は現状のささいな調整で解決できるような、単純に物質的な種類のものではない」とヘイデンは書いている。それどころか、不平不満は権力の座にいる者たちに独特な難問を突きつける。「軽食スタンドの人種差別を撤廃すれば、大規模店の人種差別撤廃への道を開く転換プロセスの口火になり、学生のリーフレット発行を許可すれば、決定における学生の発言権を正当化することになる。柄の短い鍬の禁止は、作業現場安全規則を受け入れることになる」。
おそらく驚くこともないだろうが、象徴的要求と実益的要求を対比すれば、さまざまな組織の流儀を背負う活動家たちのあいだに軋轢が生じうる。
ソウル・アレンスキーは「精神的勝利」をもたらすだけの活動に不審の目を向け、象徴的なデモを単なる広報ゴッコに過ぎないと見て、嘲笑っていた。アリンスキーの産業地域財団の理事長を継いだエド・チャムバーズは、大衆動員に対する彼の恩人の不信感を共有していた。チャムバーズは著書『過激派のルーツ』に、「1960年代と70年代の運動――公民権運動、反戦運動、女性運動――は、生気に満ち、劇的で、魅力的だった」と書いた。それでも、チャムバーズは運動の「現実離れした事柄」への肩入れについて、彼らは実益的な成果を達成するよりも、メディアの注目を惹くことにかまけていると信じている。「これらの運動の参加者たちは、州兵のライフルの銃身に花を突っ込んだり、つかの間、政治家をおもちゃにしたり、白人の人種主義者を怒らせたり、象徴的な精神的勝利に集中していることが多い」と彼は書く。「彼らは精神的勝利が現実の変化をもたらしたか否かについて反省することをしばしば避けている」。
ガンジーは、彼が生きていた当時、同様な批判の声をたっぷりと聞いたことだろう。それでも、彼の海にいたる行進などの政治行動の衝撃は侮りがたい反証を提示する。
「これは笑うしかなく…」
塩のサティアグラハ――ガンジーの行進をもって始まった非暴力不服従運動――は、大衆の支持を集めて変革を達成するための、戦闘的だが非武装のまま、勢いを増す対決の明確な好例である。これはまた、少なくとも当初は象徴的な要求を掲げたため、嘲笑や驚きを招いた事例でもある。
市民的不服従の標的の選択を責めるとすれば、ガンジーの選択は馬鹿げていた。ともかく、この見解は、英領インド政府に対するインド国民会議の挑戦の基盤となる主眼として、彼が塩専売法にこだわったことに対する一般的な反応だった。ステイツマン紙は塩の重要視を馬鹿にして、「これは笑うしかなく、たいがいの思慮深いインド人の気持ちはそうであろうと本紙は想像する」と書いた。
1930年当時、インド国民会議の実益を重視する指導者たちは、憲法問題――「英連邦自治領の地位」を獲得して自治権を拡大すべきなのかという課題と、英国側が譲歩できるような協定を実現するための手順――を主眼としていた。塩専売法は些細な課題に過ぎず、要求リストの優先項目であるとはとても言えなかった。伝記作家、ジェフリー・アッシュはこの件に関して、ガンジーが運動の基礎として塩を選んだことは、「現代における最も奇妙、かつ最も見事な政治的挑戦であった」と書いた。
見事だというのは、塩専売法に対する反逆が象徴的な意義を仕組んでいたからである。ガンジーは、「塩は、たぶん空気と水の次に生きていくために重要な必需品なのです」と説いた。塩は誰もが買わずにおれない生活必需品であり、これに政府は課税したのである。ムガール帝国の時代から、塩の国家専売は毛嫌いされていた現実だった。インド人が天然堆積層から塩を採取したり、海水を煮詰めて製塩したりすることを禁じられていたのは、外国勢力が亜大陸の民衆と資源から不当に利益をかすめていた実態を明白に示す実例だった。
税は万民にのしかかり、万民は不満をつのらせる。最も重い負担が貧困層にのしかかるという事実が、この非道をなおも酷くする。政府が取り決める塩価格は「内税――些細なものだが、家族を支える労働者にとって、年間2週間分の賃金に相当する税額――を含んでいた」と書いている。これは、教科書に書いてあるような精神的苦痛である。そして、民衆はガンジーの塩課税告発にたちまち反応した。
じっさい、抗議行動を嘲笑っていた人たちにしても、ほどなく嘲笑を収めないわけにいかない理由に気づいたのである。サティアグラハ行進が村を通るごとに――3万人もの大勢が巡礼者たちの礼拝を目にし、自治の必要を説くガンジーに聴き入るために集まり――大群衆を惹きつけた。歴史家のジュディス・ブラウンが書くように、ガンジーは「市民的抵抗がいろいろな意味で、政治劇場で演じられる実践であり、見物人が役者と同じほど重要であることを直感的に把握していた」。行進の余波として、英領インド政府の地方行政職員だった何百人ものインド人がその地位を投げ棄てた。
行進が海に到着し、不服従が始まったあと、運動は衆目を集める規模を獲得した。全国津々浦々、膨大な数の抵抗者たちが鍋で製塩したり、天然堆積塩を掘ったりしはじめた。たとえ低品質であっても、塩の違法品を購入することが、ご大尽の栄誉を示す勲章になった。インド国民会議が独自の塩販売所を開設し、組織傘下の活動家グループが政府の塩事業に対する非暴力襲撃を指導し、生産停止を狙って、体を張って道路や入り口を封鎖した。その顛末である殴打や入院騒ぎはニュースになって、世界中に放送された。
反逆はほどなく各地方の不満を取り込み、さらなる非協力行動を加えて拡大した。何百万もの人びとが英国製の衣類や酒類のボイコットに加わり、村役人の地位を棄てる人の数が増えつづけ、いくつかの州では、農民たちが地価税の支払いを拒否した。大衆の不服従はますます多様化しながら、広大な領土のいたるところで根づいた。そして、英国当局機関が精力的に鎮圧を企てたにも関わらず、不服従は月日を越えて続いた。
「広範な支持を惹きつけ、運動の団結力を維持する」ことのできる課題を見つけるのは、「これほど地域的、宗教的、社会経済的な相違性に富んだ国で簡単な仕事ではなかった」と、ブラウンは書いている。それでも、塩はこの要件にピッタリかなった。将来の首相の父、モティラル・ネルーは賞賛して、「他の誰も思いつかなかったのが、唯一の不思議である」とコメントした。
協定を超えて
要求項目として塩を選択したことが異論の的になったとすれば、ガンジーが運動を収束した流儀も同じようにそうだっただろう。実益的な標準から判断すれば、塩のサティアグラハの解消は物足りない。1931年初頭ごろ、運動は全国いたるところで鳴り響いていたが、それでも勢いを失いつつあった。弾圧が死者を出し、国民会議指導部の多くが逮捕され、政府に財産を没収された納税抵抗者たちは相当な金銭的苦難に直面していた。インド国民会議を支持していた穏健派政治家らや実業界のお歴々がガンジーに決断を訴えた。組織の闘士でさえ、交渉が妥当であると同調する者が多かった。
その結果、1931年2月、ガンジーはアーウィン卿と交渉に入り、3月5日、両名は協定を発表した。多くの歴史家が文書から判断して、竜頭蛇尾に終わっていると論じた。協定の重要な項目はインド国民会議に有利になっているようだとはとても言えなかった。市民的不服従の一時停止の交換条件として、収監されている抗議者らが釈放され、その告訴が取り下げられ、政府がサティアグラハ期間に施行した抑圧的な保安条令を解除するとされていた。当局は政府が納税抵抗者から徴収した罰金を返却し、また同時に、第三者に売却されていない没収財産も返却することになっていた。活動家たちは平和的な英国製衣類ボイコットを続けることを許された。
しかし、協定は独立問題に関する議論を将来の会談に先送りし、英国は政権掌握を緩和する約束をまったくしなかった(ガンジーはその後、1931年のロンドン円卓会議に参加したが、この会合で、ほとんど前進がかなわなかった)。抗議行動期間中の警察の治安活動について、インド国民会議の活動家たちは調査を強硬に要求していたが、政府は実施を拒んだ。最後に、そしておそらく最も衝撃的なことに、塩専売法そのものは、沿岸地域の貧困層が自家消費用に限定量の製塩を許されるという譲歩が付いたものの、法律として残った。
ガンジーに最も近い政治家の一部が協定の条項にひどく落胆し、さまざまな流派の歴史家たちが、運動の目標達成失敗という評価で一致した。後から考えると、ガンジーが交渉で譲歩したものが大きすぎたと論じるのは確かに妥当である。それと同時に、単に実益の観点だけで決着を判断していては、もっと広い視野でその影響力を推し量れなくなる。
象徴的な勝利を主張する
短期的な成果達成を横に置くとすれば、象徴的な要求や戦術を採用する運動の成功をどのように評定すればよいのだろうか?
弾みで動く運動には、進歩を判定するための測定基準が2つある。運動の長期的目標が問題に関する世論の転換なので、1つ目の測定基準は、ある運動がその運動の大義に対する大衆の支持を拡大したか否かである。2つ目の尺度は、運動がさらに拡大する力量を備えるようになったか否かである。弾みがついて――参加者が増え、優秀な人材を揃え、正統性が強化され、戦術的力量が増強され――強大な立場で活動家たちが明日という日も戦えるようになると、非公開の交渉の席で重要な進歩を獲得したか否かを横に置いて、指導者たちは成功したと確信できる事例を達成する。
ガンジーは、交渉人経歴の全期間を通して、些細な事項では譲歩する意志の大切さを強調していた。ジョーン・ボンデュラントがサティアグラハの原則に関する彼女の透徹した研究で認めているように、ガンジーの政治信条のひとつは、「要求を真実と呼応した最小限に絞り込む」ことだった。ガンジーは、アーウィンと交わした協定がそのような最小限の成果をもたらしただけなので、運動を品位のある形で収束することができ、将来の闘争に備えることができるようになったと信じていた。ガンジーにとって、たとえ限定的であっても、塩専売法の例外条項を認める総督の協定は、原則上の決定的な勝利に相当していた。その上、ガンジーは対等者として交渉すること――その後の独立問題協議に引き継ぐ決定的な前例――を英国に余儀なく受け入れさせたのである。
ガンジーの敵の多くはそれぞれの流儀で、こうした譲歩の意義を認めることで一致し、協定が帝国の権力にとって後々まで響くことになる失策であったと見ていた。アッシュが書いているように、デリーの英国官僚たちは「その後ずっと…アーウィンの動きについて、植民地政府が失地回復することのない致命的なミスだったとブツブツ言っていた」。指導的な大英帝国の防衛者、ウィンストン・チャーチルは今では評判の悪くなった演説で、「ガンジー氏と会うのは、憂慮すべきことであり、また不愉快極まりなく…国王=皇帝陛下の代表と対等に交渉するのは…半裸で悪の王宮の階段を踏音荒く上がるようなものだ」と吠え立てた。チャーチルがいうには、ガンジー――彼が見るに「狂信者」であり「坊主」――は成り行きによって獄から踏み出て、「威風堂々とした征服者の場面に(出現した)」。
内部者らが運動の成果について互いに衝突する見解を持っていた一方で、一般大衆の疑念ははるかに小さかった。スバス・チャンドラ・ボースはガンジーの協定に懐疑的だったインド国民会議の急進派のひとりであるが、田舎における反応を目にして、見解を見直さなければならなかった。アッシュが物語るところによれば、ボースがガンジーとボムベイからデリーに旅したとき、彼は「これまで見たことのないような熱烈な歓迎を目撃した」。ボースは証拠を認めた。「彼が検討した政治のルールのすべてから見ても、マハトマの判断は正しかった。だが、大衆の目から見て、英国人が命令を言い渡すのではなく、交渉の席に引っ張りだされたという単純な事実は、あれこれ細かいことを圧倒していた」とアッシュは続ける。
1950年に刊行されたルイス・フィッシャーのガンジー伝は影響力があり、今でも広く読み継がれているが、塩の行進の遺産について、最も劇的な評価を記述している。「インドは自由でなかった。理論的にも、法律的にも、何も変わらなかった。インドはいまだに英国植民地だった」と彼は書いている。それでも、塩のサティアグラハのあと、「いつの日か、英国がインド支配を拒むようになり、インドが支配されるのを拒むようになるのは、必然だった」。
その後の歴史家たちは、ガンジーを「建国の父」として無批判に持ちあげる第一世代の聖人伝から距離を置いて、インド独立に対するガンジーの貢献の含蓄ある表現を追求してきた。ジュディス・ブラウンが2009年に執筆した著作は、英国のインドからの離脱に寄与した、さまざまな社会的・経済的圧力、とりわけ第二次世界大戦に伴う地政学的な変化を挙げている。それでもなお、塩の行進などの動きがインド国民会議の組織と大衆社会における正統性の確率に中心的な役割を担って決定的だったと彼女は認めている。大衆的な抗議行動を見せつけることだけが帝国主義者を追い出したのではないが、政治状況を変えたのである。市民的抵抗は「英国人がインドを去る時期と方法を決めることになった環境における決定的な要因だった」とブラウンは書く。
ガンジーは、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアがバーミングハムで約30年後にしたように、実益的な価値を限定したが、抽象的な勝利を主張し、強者の立場に浮上することを許す決着を受け入れた。ガンジーの1931年における勝利は最終的なものではなかったし、1963年におけるキングのそれもそうだった。今日、社会運動は、人種主義、差別、経済的搾取、帝国的軍事行動に対する闘争を戦いつづけている。担い手たちが望むなら、精神的な勝利を永続する変革に転換した父祖たちの強力な模範に助けられてそうすることができる。
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Photo credit: Walter Bosshard / Wikimedia Commons.